2022年09月04日

岡山バプテスト教会


週 句 神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができます
聖書    ダニエル3章17節

説 教 「昇ったのだから降りておられたのだ」高橋周也牧師
聖書    エフェソ4:1~16
「イエス・キリストの囚人」
 私たちの教会では、9月を教会教育月間として過ごします。今年は初の試みとして、毎週の礼拝式の中で、朝の分級の各クラスにより発表が行われることになりました。とても楽しみです。
 本日の礼拝式の聖書箇所は、教会教育の役割を表すものと言えます。堅苦しく表現すると、教会教育は、教会を造り上げ、信仰と知識を与え、成長・成熟する・・・その領域に仕えるものと言えそうです。同時に今日の礼拝では、全ての「教育」には「目的」があるように、この箇所が証する主イエス・キリストのお姿を通して、私たちのいのちに目的を与えてくださる主なる神様の姿を求めたいと願います。
 キリスト教は生き方です。ここで“パウロ”は、「わたしたち一人一人」に、「キリストの賜物のはかりに従って」恵みを与えた主の生き様にならう(み足の跡を行く)ことが私たちにふさわしい歩み(=生き方)であると証します。キリストにある者にとって、「違い」は「問題」ではなく「豊かさ」なのです。そこに喜びがあります。“パウロ”は時と場所を超えて、同じく「キリストに結ばれて囚人となっている」私たちに勧めます(原語:囚人の傍らに立ち慰め励ますの意)。身をもって私たちにキリストに倣う生き方を示したのです。“パウロ”はそういう仕方で私たちを「教育」してくれているのではないでしょうか。教会の交わりの模範がこの箇所にあります。分級をはじめ、私たちの生き方もまた、互いに傍らに立ち、仲間の存在をキリストに与えられたものとして喜ぶものでありたいものです。

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