週 句 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
聖書 マタイによる福音書5章9節
説 教 「着替えよ」 高橋周也牧師
聖書 創世記35章1~15節
「嘆き―取り戻しのストーリー」
創世記34章と35章の前半はつながっています。また、35章が3人の埋葬を描く物語であることには意味があります。34章には、レアとヤコブの娘ディナが強制性交(レイプ)事件の被害者となったことを口実に、報復として、ヤコブの息子たちがシケムの街中の男たちを殺し、女・子どもを捕虜とし、略奪の限りを尽くしたという事件のあらましが記されています。これは神の民による卑劣な戦争の過ちです。
また、さらに驚くことに、キリスト教の伝統は、加害者シケムを擁護し、被害者ディナに沈黙を強いて来ました。旧約の律法において、これは父ヤコブの受けた「恥」であり「財産の損失」とされ、賠償の対象でした。いわゆる「時代の限界」で片づけられるものではありません。なぜなら、特に日本ではそうですが、現代の説教や解説書出版物等において、いまだなお以下のようなトーンで語られ続けているからです。たとえば、「仕方のないことだった」、「話題にすべきことではない」、「ディナも土地で地位の高いシケムとの関係を望んでいたはずだ」、「事件のきっかけとなったディナの外出は軽率だった」、「ディナは本当に被害を受けたのか?」―こうした言葉(被害者への偏見)が人を傷つけるのは言うまでもないことですが、これらの言葉が交わされる共同体は、決して安心して人が憩い、癒される場所にはなり得ませんし、平和とはかけ離れています。
おかしいと思うことはおかしいと声をあげ続けたいと思います。なぜなら、神のストーリーに軽んじられていい存在というのはないからです。35章前半はそれを教えてくれ、少しだけ、そこに対して希望を見出せる箇所です。ただし、それを実際に生きるのは、私たちです。平和を取り戻すための人間らしさは「嘆き」から生まれます・・・<お話しへ続く>