33 │2024年8月18日

岡山バプテスト教会


週 句 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
聖書   ヤコブの手紙1章22~23節

説 教 「何のつもりか―好意」 高橋周也牧師 
聖書   創世記33:1〜20

「顔の物語」
 創世記32章から33章にわたる物語は、ヤコブが「何者か」と格闘し、その後兄エサウと出会う物語として知られるストーリーですが、実は 「顔の物語」としても読むことができます。ヤコブが兄から長子の権利を奪って逃げたことを、ヘブライ語本文における神の台詞は、「兄エサウの顔から逃げた」と表現します(創世記35:1)。ヤコブは兄の顔を再び見る前に、神の顔を見なければならなりませんでした(32章後半/先週の箇所)。そして今日(33章)は・・・?
 実は、この再会に臨むヤコブの思いもまた、ヘブライ語では「顔」で表現されています。残念ながら、新共同訳では、先の35:1同様に「顔」は省略されてしまっています。「私の顔の前にあるこれらの贈り物で彼の顔を覆い、その後、私が彼の顔を見るとき、おそらく彼は私の顔を上げるだろう」(32章20節)。ヤコブはエサウの復讐心や怒りを鎮めるために、顔を覆おうとしました。ヤコブとエサウのふたりは、今日の場面で「顔を上げる」のでした。ヘブライ語で「顔をあげる」は慣用句であり、「相手を好意的に受け入れること」、「人に親切にすること」、「相手を許すこと」、「友好関係をもつこと」、「他人を受け入れること」を意味します。エサウはヤコブを受け入れ、ヤコブは、エサウの中に神の顔を見ると告白します(33章10節)。
 また、ここにはヤコブの家族や召し使いたち、家畜など、大勢の「顔」があります。そして、このシーンを見つめておられる神の顔もまた、この人たちに向けられているのです。<お話しへ続く>