招きの詞 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
聖書 2章 34-35節
説教 「歴史に埋もれた嘆き」 伊藤聰牧師
聖書 マタイによる福音書2章13~18節
「歴史に埋もれた嘆き」
幼な子イエスの姿は平和そのものです。しかし、神による救いのわざは、幼な子の安らぎと平和だけで成し遂げられたのではありません。マタイ福音書は、救い主誕生の出来事を伝えた直後に、ベツレヘムで起きた虐殺について淡々と語り進めます。救い主が誕生したにもかかわらず、人々の嘆きと悲しみは依然として拭われることがないという絶望、救い主の誕生は何の役にも立たず、弱者の救いなど実現するわけがないという落胆を覚えます。しかし、このような有無を言わさぬ現実の中に救い主は誕生されました。人間の弱さをその身に受け、人間の無念を背負って十字架につけられ、見捨てられたという絶望の中に救いは成し遂げられたのです。
ベツレヘムでの虐殺は聖書にのみ記された出来事です。歴史的な記録はどこにも見出されません。当時、ヘロデは残虐な人物として広く知られており、一方、ベツレヘムは寂れた寒村であったことを考慮すると、この虐殺はヘロデの命令によって目立たぬように実行され、記録されることすらなかったという説明も可能でしょう。しかし、マタイ福音書は、歴史的な客観性に注目するのではなく、理不尽な暴力に蹂躙された人々の悲嘆と絶望に光を当てようとしています。歴史に埋もれてきた無数の人々の姿が、ベツレヘムの悲嘆に重ね合わされているのです。
イエスの身代わりとなって無辜の幼な子が虐殺されました。それは神のご計画だったと言われても、私たちには到底理解することができません。そんなことが許されてよいはずがありません。だから、救い主イエスは、人間が抱える弱さと闇に寄り添い、嘆きと悲しみを一身に引き受けられました。私たちには理解できなかった神のご計画が、まず、この方の上に実現されたのです。それは、私たちが信じるようになるためだったのです。