週 句 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
聖書 コロサイの信徒への手紙1章 19~20節
説 教 「神からの贈り物」 高橋周也牧師
聖書 マタイによる福音書8章5~13節
「主のただ一言を求めて」
イエス様は、百人隊長の信仰に驚かれました。イエス様は、私たちの信仰にも驚かれることがあるでしょうか?
神様の言葉を聞き、それに従って生きることは、受け入れがたいことを含みます。創世記22章にて、アブラハムが、神の導きを信じて、息子イサクをいけにえに捧げようと歩み出した時、しばしばアブラハムは苦悩しただろうと語られます。果たして神は羊を備えておられ、アブラハムは信仰のテストに合格したのです―よって、「主の山に備えあり」。しかし、自分の体験から、私はこの語り方を受け付けなくなりました。殺されそうになったイサクは一生もののトラウマを抱えたに違いありません。その当時の聖書の民の周辺世界では人身御供の風習がごく普通にみられたと言います。そうであれば、聖書の神は、「信仰」を口実に人の命を奪う営みに否を言われたのではないでしょうか。そんなことをしなくても、「主の山に備えあり」。
私たちは、神が備えてくださるものに目を開き、信仰をもって歩むことが求められています。願った通りではなく「信じた通り」になります。祈りは私たちが神に委ねて生きることですが、私たちもまた神から委ねられた事柄があります。私たちには、百人隊長の言う通り、コントロールできない領域もありますけれども、自分が何かできる可能性をも、それぞれの立場に応じて与えられています。神は、ご自分の創造された世界を共に喜び、共に味わい、その御業をより豊かにするために、神の像に私たち人間を創造されました。私たちの出会っている事柄や人々に、主のただ一言を求めて執り成し、祈りましょう。家に帰るまで、百人隊長がしもべの癒しを目の当たりにすることはありません―だから、「帰りなさい」。