05 │2025年1月26日

岡山バプテスト教会


週 句 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
聖書   イザヤ書58章6~8節

説 教 「なぜ隠れなければいけないか」 高橋周也牧師
聖書   マタイによる福音書6章5~15節

「隠された祈り」
 イエス様は「隠れて祈りなさい」と教えられました。それはなぜでしょうか?イエス様が生きていた時代、人々は生活のために世の権力者に従わざるを得ませんでした。イエス様は「天におられる私たちの父よ」と祈ることを教え、世の支配ではなく神の支配を求めるようにと教えられました。この祈りは、不正を絶ち、命を守り、神の価値観で人々が繋がり合うことを目指す、力強い祈りです。
 マタイ福音書を最初に記したり読んだりした人々は、先祖代々ユダヤ教徒であり、祈り、施し、断食は生活の一部でした。しかし、イエス様に出会うことで、彼らは全く新しい「祈り」を知ります。自分たちを支配するローマ皇帝を「父」とする世に対し、「天におられる私たちの父よ」と祈ることは、真の「父」は神のみであると宣言することに他なりません。それに続く言葉も、極めて切実な願いでした。人々は食べるために、生きるために、世の「父」に従わざるを得なかったからです。ルカによる福音書では主の祈りは祈りを教えてほしい弟子たちのリクエストにイエス様が応えたものでしたが、マタイによる福音書では非常にカウンターカルチャー(対抗文化)的です。
 ところで、イエス様は、「隠れたところで祈りなさい」と教えられました。この「隠れたところ」は、神様との特別な出会いの場であると同時に、歴史的に見過ごされてきた、あるいは抑圧されてきた場所でもあります。奥まったところに閉じ込められ、戸を閉められてしまったところ(皆から目を塞がれてしまった場所)に、実は天の親なる神様はおられ、報いてくださいます。それが地上の「父」たちとの明確な違いです。「天におられる私たちの父よ」という祈りは、単に天にいる神に呼びかけるだけでなく、地上の不正義に立ち向かう力となります。「隠れたところ」での祈りは、地上の「父」に媚びずに生きる命への道でもあります。