42 │2024年10月27日

岡山バプテスト教会


週 句 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
聖書   ヨハネによる福音書8章7、10~11節

説 教 「『見よ』の主が見ているもの」 高橋周也牧師
聖書   エレミヤ書23章1~6節

「主は我らの救い」
 今日のエレミヤ書23章1~6節は、「災いだ」とか「罰する」と語る神の厳しいメッセージを含んでいます。アンブロシウスやアンセルムスといった古典的な西洋中世の神学においては、旧約聖書の神は恐い神です。人間に対する燃える怒りを罪のない独り子イエスを十字架で生贄(いけにえ)として殺すことによってのみ宥(なだ)められる存在であり、そのイエスひとりの犠牲によって全人類の罪が精算されたから、新約聖書の神は愛と慈しみの方となったのだ、と説明します。しかし、私はそのような残酷な親を神として愛したり信頼したりすることはできません。私だけではなく、例えば、神学者ミヒャエル・ヴェルカーも、上記を「信仰を破壊する以外の何ものでもない」ものであり、「この考えは、キリスト教とはかけ離れた、悪魔的な潜在的な神のイメージを広めている」と酷評しています。それでもまだまだ、西洋中世神学的な神理解が、あたかもまるで真理かのように残り続けています。
 しかし、実際に聖書を読んでみると、どうでしょうか。神様は途中で性格が変わったのではありません。最初から一貫して愛なるお方であり、ご自身の民の言葉や振る舞いに傷つきつつ、人間と交渉し、傷ついた人々を取り戻そうとし、人と共に生きようとすることをやめないお方として描かれています。イスラエルの神という時の「神」とは、愛を基本としつつも、単純で簡単なお方ではなく実に複雑なお方です。そのご性質の一つに「エル・ロイ」(見てくださる神)という名があります。ハガルやハンナがであった神です。神は一人ひとりの苦しみや葛藤に寄り添い、私たちが生きる道を見守り続けておられます。私たちが失敗をした時、その違反を見逃さずに懲らしめるためにではなく、そこで得た傷を受け止め癒し包み込んで、もう一度立ち上がることへと促すために・・・。(お話へ続く)