週 句 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
聖書 マタイによる福音書 11章 28節
説 教 「悲しみを愛に変える力」 高橋周也牧師
聖書 創世記45章1~8節
「声をあげること=何者かを示すこと」
みなさんは最近、何かに泣いたことがあるでしょうか。それも、人目をはばかってすすり泣くような仕方(創世記42章24節や43章30節)というよりも、本日のヨセフのように人にきこえるほどの声で(創世記45章2節)・・・。
この場面を読みながら、これまでであったいろいろな人たちのこと、自分自身の過去のこと・・・いろいろなことを思い出していました。声をあげて泣くことは最大のセラピーであるとも言われますけれども、大人になると、現実にはそう声をあげて泣くことは多くないのかもしれません。それに、悲惨な時、辛い境遇にある時には、泣いている余裕すらない、あるいは、例えば「この人の前では泣けない」という人間関係もあることなど、いろいろと考えさせられます。ヨセフはついに平静を装うことができなくなり、号泣しました。ここにヨセフの解放があるのではないでしょうか。エジプト人の大臣ツァファナト・パネアとして生きてきたヨセフは、ここでようやく自分を取り戻したのです。
また、この箇所でのヨセフのセリフは、ヨセフの信仰告白のようでもありますけれども、何度も繰り返して読むうちに、20年越しの神から与えられていた夢の解き明かしでもあるのではないかと思いました。ヨセフの見た夢は、自分にきょうだいたちがひれ伏すという部分的なものでしたけれども、それはヨセフ自身の立場のためとかではなくて、神が皆を共に生きるように導くというお告げだったのです。
神は、ヨセフからも、父ヤコブからも、きょうだいたちからも、一時的にお互いを遠ざけました。そのことによって、互いが大事な気づきと生き方の変化を与えられたと言えるでしょう。ここに神の導く「救い」があります。