週 句 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
聖書 ローマの信徒への手紙8章 15節
説 教 「勝ちの価値」 高橋周也牧師
聖書 創世記32章23~33節
「傷ついた者たちのストーリー」
本日の箇所、ヤコブと何者か(神)との格闘シーンは印象的です。しかし、ドラマの核心は格闘そのものではなく、神によるヤコブの(再)名づけにあります。聖書において、名前は人のアイデンティティーや生き方を象徴的に示すものです。また、聖書に名前を記されることで、神のストーリーの脚本に配役を得た登場人物のひとりとも見なされます。
さて、創世記というだけで、物語は太古の神話と思われがちですけれども、実は歴史上においては、この物語を編集しまとめられたのは、バビロン捕囚時代後半のことだと言われています。捕囚末期の時代、イスラエルの民は名前を奪われ、支配者によってペルシア風の名前を与えられました(ダニエル書等参照)。ヤコブは生涯傷を負ったまま歩みます。この物語もまた、「傷ついた者たち」の語りによるストーリーなのです。
ところで、不思議なことに、せっかく与えられたイスラエルの名前ですが、彼は引き続きヤコブと呼ばれます。それは他者と関わり合い生きる、傷を負うて生きる、そのヤコブであるという名前(生き方)を、「イスラエル」が忘れてはならないからではないかと思います。もともとヤコブであることを忘れてしまった「イスラエル」に、イスラエルと呼ばれる資格はありません。
イエス様もまた名付けをしました。弟子シモンに「ペテロ(岩)」と名を付け、教会にご自身の使命を託していかれました。ペテロはイエス様の十字架について予告された時、「そんなことがあってはなりません」とイエス様を否定しました。けれど、「神のことを思わず、人のことを思っている」姿勢は、イエス様から𠮟られることになりました。ヤコブの姿は、イエス様が傷ついた姿で復活したこと、すべての人のためにもだえて執り成して祈ってくださるキリストの姿に重なります。