30 │2024年7月28日

岡山バプテスト教会


週 句 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
聖書   フィリピの信徒への手紙3章20節

説 教 「驚きへの目覚め」  高橋周也牧師
聖書   創世記28章10~22節

「神話のような現実世界のストーリー」
 創世記28章10~22節の物語は、一見すると、ここに来てようやく族長物語らしい形を取り始めたかのように思われます。実際この箇所は、特に、近代のファンダメンタルな教会において、恥ずべき罪を犯した、利己的なヤコブという一人の人物が、絶望と孤独の中で本当の神に出会う劇的な回心、個人の信仰回復の物語として愛されてきましたが、それは一解釈に過ぎません。
 元来、族長物語(この箇所を含む創世記12章以降)とは、信仰の祖の物語であり、単なる昔話や神話ではなく、私たち聖書の神の民に本来のアイデンティティー(「召命」)を取り戻させ、希望を与えるためのものです。この物語において、神は「罪」を問うてはおらず、ただヤコブという人物に寄り添い祝福しています。また、アブラハム―イサク―ヤコブの物語は、そう語ることが典型的ではないというだけで、現代の国連が定義する「難民(※)」の物語として要約することが可能です。信仰の祖は神の民である私たちの代表であり、神の民は難民なのです。
 ところで、旧約聖書の律法には、寄留者(=難民・外国人)を軽んじてはならない。あなたがたもかつてエジプトでそうだったから、と記されています(レビ記19章等)。律法に理由まで書いてある箇所はそう多くありません。この律法を与えられた世代は、ほとんどエジプト生活を体験していませんでした。それは先祖のことだったのです。もう一つ大事なことは、イスラエルが約束の地に定住するにあたって、神は「土地は私のものであり、あなたがたは私のもとにいる寄留者か滞在者にすぎない」と戒められたことです(レビ記25章23節 )。
神の民が“難民”であることは、おそらくキリスト教の初代教会においても自明なことでした。・・・<お話しへ続く>
※難民の定義について https://www.unhcr.org/jp/what_is_refugee(2024年7月27日アクセス)