29 │2024年7月21日

岡山バプテスト教会


週 句 “霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
聖書   ローマの信徒への手紙8章26節

説 教 「『「祝福』とは何か?」  高橋周也牧師 
聖書   創世記27:18〜29

「神、主と言ってはみたものの」
 人がよかれと思ってたてた「作戦」は、またしても神の民の祖である一家を苦悩のスパイラルへと巻き込んでいきます。生まれながらに争う双子(創世記25章)、ゲラルでの嘘とそれに続く井戸をめぐる争い(同26章)、エサウの妻たちとの人間関係の悩み(同26章35節)、そのような中でのリベカの策略(同27章1~17節)による本日の一幕(同18~29節)です。ここでリベカの策略が個人的な性格の歪みやイサクへの偏愛によるものと単純に捉えて、人間の現実に嘆息するのは早計です。あくまでも、このストーリーは「祝福」にまつわるものだからです。
 おそらくリベカの行動は、25章23節の託宣に理由があります。家長の法的権力はイサクにありましたが、家庭内で起こることを把握することは妻リベカに課せられた務めでした。イサクは高齢となり視力が衰えたので、リベカの抱えたプレッシャーは、ひときわ大きかったのです。リベカは神のビジョンが実現するために、自分なりに考えて動いたと言えます。つまりこれは信仰者であったがゆえの失敗です。ヤコブもまた、「神、主」の名を用いますが、実際には、母リベカの言うがままに動いたに過ぎません。
彼女らはどうすべきだったでしょう。この一連の策略において、登場人物全員に足りなかったのは、本当に主がここにおられて、何かを成してくださるという、神への畏れと祈りではないでしょうか。聖書は「策略」の失敗と共に、この先を長きにわたって記しています。実は彼女たちはまだ誰も知らないのですが、このストーリー全体が(あるいは登場人物全員は)、既に主によって祝福されているのです。
 主に従いゆこうとする時、私たちも、それを知りつつ、歩みゆく者たちでありたいと願います。