26 │2025年6月22日

岡山バプテスト教会


週 句 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
聖書   ヨハネによる福音書3章13-15節

説 教 「なすべきことはただ一つ」伊藤聰牧師
聖書   フィリピの信徒への手紙3:10~4:1

 オリンピアに代表される古代ギリシャの競技会は、紀元前9世紀ごろに始まったといわれ、使徒パウロが生きた時代にも継続されていました。パウロは今日の聖書箇所で、この競技会を譬えに用いつつ、キリスト者の苦難と救いについて説明しています。キリスト者は、キリストの復活のいのちに結ばれ、「捕らえられ」て、救いを約束されています。そういった意味では「完全に」救われた者です。しかし、この世で肉の命を生きる間は、引き続き弱さと過ちの中に生き、労苦から逃れることができない「不完全な」罪人でもあります。すでにキリストの救いにあずかっているにもかかわらず、未だみ国の到来と復活のいのちを待ち続けているのです。しかし、キリスト者はこの世で無駄な時間を過ごしているのではありません。パウロは、そんなキリスト者の姿を、走り続ける競技者に譬えています。救い主イエスは、十字架と復活を通じて救いのわざを成し遂げられました。ですから、礼拝、交わり、奉仕、忍耐といったキリスト者の行い一つひとつが、救いの対価、代償となるわけではありません。しかし、日々の働きや労苦が無価値ならば、キリスト者は一体何のために生きるのでしょうか。パウロは投獄されていて、もはや自分の計画通りに働くことができませんでした。身体も心も弱っていく中でこの手紙を書きました。そして、何の役にも立たない自分であっても、苦難の中にキリストの十字架を見上げ、み国の救いにあずかる希望を捨てていないこと、また、復活のいのちという目標から目を逸らしていないことを力強く述べ、救いを証ししたのです。様々な働きを担い、あらゆる労苦に耐えていても、私たちのなすべきことはただ一つ、主イエスの十字架を見上げ、希望を捨てず、み国を目指して人生を走り抜くことなのです。