22 │2024年6月2日

岡山バプテスト教会


週 句 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
聖書   マタイによる福音書6章33~34節

説 教 「慰め、慰め、慰め・・・」  高橋周也牧師
聖書   二コリント1:3~11(参照1:1~2)

「慰め」
 今日からしばらくの間、教会学校と礼拝説教の聖書箇所は、コリントの信徒への手紙二となりました。この手紙は、パウロが苦しみの中にあって慰めを与えられたことへの神への讃美の言葉で始まります。アジア州での危機(1章8~11節)は、おそらくこの時期には、ある程度の解決をみていたのでしょう。また、『一』の手紙からの間に、一度コリントを訪れたようですが、教会との間に「何か」はあり続けているようです。書かれた時期は、おそらくマケドニアにいた頃かと考えられていること(ぜひ、合わせて『使徒言行録』を読みましょう)。また、しばしば、この手紙に関しては、2~6通くらいの手紙がひとつにまとめ直されているものだということが言われます。
 『二』のなかの一通目の手紙のテーマは、苦難と弱さの中に現れる力ではないでしょうか。その「慰め」という力について、聖書では日本語的な「ヨシヨシ」というのとは、少し違うかもしれません。イエス様は、自らを裏切り、傷つき、気落ちしている弟子たちをどう慰めたでしょうか。それは、十字架に傷つけられたご自身の身体をただ指し示されることによってだったのです。実は、パウロもそうではないでしょうか。死の危機に直面した自分の苦難を「知ってほしい」。そして、おそらくパウロ自身も、コリント教会の傷ついたありのままの姿を受け入れ、共に居続けようとしたのです。
 主の臨在(presence)、そして、その主を信じる者が「そこにいる」ということにおいて、もうそこに「慰め」はあるのです。