21 │2024年5月26日

岡山バプテスト教会


週 句 主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。
聖書   申命記31章8節

説 教 「復活は誰のため?」 高橋周也牧師
聖書   コリントの信徒への手紙一15: 12〜22

「復活から「教会」へ至るストーリー」
 神は、十字架に架けられたイエス様を、死者の中からよみがえらせてくださいました。その「復活」は、新約聖書の中心的なできごとです。聖書のどこにもどんなふうに復活したのか、その詳細は描かれていませんけれども、イエス様は、500人以上もの多くの人々に現れました(コリントの信徒への手紙一15章6節)。そのうちのいくつかの物語は、福音書で読むことができますが、聖書記者たちは、復活したイエスを、肉体的な存在として描くかと思えば、非物理的な存在として描くこともあります。
 墓で泣いていた婦人たちは、イエス様から「おはよう」と声をかけられて、イエス様に近寄りひれ伏し足を抱きました(マタイ28:9)。エマオの弟子たちは、ずっと一緒に歩いていても気がつかない2人でした(ルカ24:16)。鍵のかかったドアを通り抜けて弟子たちのいた部屋のまんなかに現れました(ヨハネ20:19)。けれど、その身体には肉と骨があり、弟子たちと一緒に魚を食べもしました。また、トマスには触ってよく見るようにと促しましたが(ルカ24:39~43)、別の場面ではマリアに、わたしにすがりつくのはよしなさい(=「触り続けないで」)とおっしゃいました(ヨハネ20:17)。
 復活の出来事には、歴史的側面と超越的側面の両方が存在します。歴史的側面を無視すれば、復活の奇跡的な性質が損なわれます。一方、超越的側面を無視すれば、復活の現実的な意味が失われます。実は、その両方から脱却したとき、真の復活信仰に至るのではないでしょうか。(お話しへつづく・・・)
イースターの朝に暗闇の中でイエスに起こったことは何であれ、自分の人生と言葉をイエスに関連づけるすべての人に起こることである。
―リチャード=リシャー(拙訳)