週 句 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
聖書 マタイによる福音書11章28節
説 教 「未来は今、はじまるよ」 高橋周也牧師
聖書 イザヤ書61章1~3節
「主の年2023年の終わりに」
光陰矢の如くまた一年は終わり、真の光訪れるクリスマス、本日こそ降誕節第一主日の喜びの日のはずですが、もはや大晦日の波に飲み込まれているようです。しかし、つい生き急いでせいていく私たちの心の足を一歩停めて振り返って見るならば、やはりこの一年には何につけても、当教会の歩み、世界の動き、個々の人生を考えるにおいても、何気ないことを繰り返したつもりになっていることさえ、実にさまざまなドラマを経たのです。信仰者が「主の年2023年」と数えるのは、おそらく主の降誕から今の時を憶えるからでしょうが、私の思いでは、「この年も主のものであった」という告白を含んでおきたい気持ちがするのです。2023年は主のものでありました。こう言い表す時、私たちは、たとえ今暗い心を持っていたとしても、賛美の衣を身にまとって、信仰から来る深いところでの希望を明るくいただいて、2024年を迎えることができます。預言者第3イザヤは、主の霊に捉えられて、旱魃や戦乱の矢に囲まれて怖気づき、神の民としてのアイデンティティーを失って神殿再建を中断した聖書の民たちに「良い知らせ」を告げます。それは打ち砕かれた心を包む神の愛です。やがて、このメッセージ自体とその実践は、今朝の箇所そのものを通して、主イエス・キリストに託されました。これを具体的に記したルカによる福音書は、天に挙げられたキリストの祝福に地が包まれている描写にて終わり、その続編である使徒言行録は、その場面から始まって、天に挙げられたキリストの代わりに、人々に聖霊が与えられたことから展開されます。主の霊をいただき、人々は教会共同体をつくります。それが連綿とつながって、2023年の岡山に集う私たちと至りました。キリスト者の歩みは常に「良い知らせ」の延長にあります。不思議なことに、私たちは神の導いてくださるストーリーに招き入れられているのです。