週 句 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
聖書 ルカによる福音書2章28~30節
説 教 「聖書:遠い未来からの手紙」 高橋周也牧師
聖書 イザヤ書25章1~9節
「待ち望むとは」
神学者カール・ラーナーは「神とは、絶対的な未来である」と語りました。人の目の前にある「手近なもの」には、人間のエゴや欲望が浸透しており、それを頼りにして動けば、まるで空っぽのものを消費するように希望のない人生を送ることになります。しかし、絶対的な未来である神様から与えられる今を丁寧に生きようとすれば、それは大変人間的で価値ある生き方となるのです。イエス様が私の今のために命を賭けられたのですから、それを受け入れることこそ、真の希望だというのです。また、希望ということについて、哲学者エイリッヒ・フロムは、「強い希望を持つ人は新しい生命のあらゆる兆候を見つけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備を整えているのである」と書きました。その言葉からは、福音書が証しする、イエス様を喜び迎えた老シメオンの姿を連想させられます。
共通して2人から教えられることは、信仰者の待ち望んで生きる姿です。第1イザヤの時代、当時の世界情勢に王から民に至るまで皆動揺して、「死」と契約を結びました。神の恵みの業を待たず、大国との同盟に身を委ねたその状況は、高床で水に襲われることのない建物にたとえられています (イザヤ書28章14~15節)。しかし、そのような「異邦人の館」は神の祝宴の現場にはなり得ず、取り除かれなければならなかったのです(25章2節)。表面的には戦争・平和の話題のようでいて、信仰の本質としてみれば、「館」(建物)の建築を目指す私たちの教会にとって、大切なことを示されてもいます。主が与えてくださる建物は、「試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石(=よく念入りに調べた土台の上に、神の民皆で造り積み上げたもの)であり、信ずる者は慌てることはない」(28章16節)のです。