週 句 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
聖書 使徒言行録3章6節
説 教 「「君」の名は。」 高橋周也牧師
聖書 イザヤ9章1~6節
「平和の君のもたらす平和」
聖書を愛する人びとのなかで有名なことのひとつに、「神(あるいは、神の力を地上にもたらすことを期待された理想の王)の名はワンダフル・カウンセラー」というのがあります。それは私たちの新共同訳聖書では「驚くべき指導者」と訳されている言葉(イザヤ書9章5節)について、外国でそう英訳されたためです。「優れた助言者」とも訳し得る言葉です。それに続く「力ある神」「永遠の父」「平和の君」と合わせて4つともが、不思議なことに古代の大国エジプトの王に対して用いられた呼称です。
イザヤの時代、聖書の民がつくる2つの国は、どちらも軍事的に強い国の影響に取り込まれて、存亡の危機にありました。自分たちの保護を神ではなく大国の軍事力に求めたことに端を発しています。その状況に対して、イザヤが語った神または理想王がカウンセラーだったとは興味を惹きます。カウンセラーはクライエントの危機に適切に介入し、アイデンティティーの回復や確立に務めることが求められます。聖書の民存亡の危機は、実は国家そのものの消滅云々ではなく、神に依り頼んで生きるという大切なアイデンティティーを喪失することだったのです。
聖書自身についてより注目すべきことは、イザヤは続く6節に「平和の君」についてのみ、明確に書き記していることです。平和とは「公正と正義(ミシュパトとツェダカ)」が神の熱意によって成し遂げられることによるのであるということは、今の力関係の逆転による自分だけの平和や、その代わりに誰かが虐げられるという形での平和は望まない、それなら平和とは言えないということです。預言者イザヤが、敢えてエジプト王の呼び名で神を表したことは、自らの真の支配者は誰なのかを示す信仰告白と言えるでしょう。