週 句 悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。
聖書 マタイによる福音書5章4節
説 教 「へべれけオヤジ・ノア、声を挙げる」 高橋周也牧師
聖書 創世記9章18~29節
「もう一つの事件」
本日の聖書箇所(9章18節以降)は、ノアの経験した洪水の後日談として読まれることが多いようです。
本日の説教ではほとんどこの読み方を扱いませんが、よく好まれてきた解釈は、ノアは酒に酔って醜態を晒し、それを息子のひとり(ハム)は気を利かせずに他の兄弟に告げ口し、あとふたりの息子は、父の威厳を保たせるためにその恥を隠してあげたという筋書きです(今月号の『聖書教育』誌も同様)。また、しばしばこれとセットで、ふたりの息子の気遣い・親孝行は、神の御心にかなうものであったと説かれます。この読み方も大事です。聖書より古くからある他民族・他宗教の洪水物語においては、洪水から生き延びたノア的立場の人がやがて神格化されます。それらとは対照的に、このへべれけオヤジの姿は、どこまでいっても人はあくまでも人にすぎないことを示すからです。
もう一つ昔好まれた読み方は、ハムの息子カナンに対するノアの呪いの言葉「奴隷の奴隷となれ」を根拠に奴隷制を正当化する読み方でした。カナンの子孫がアフリカ系の人々であるという解釈とセットでした。こういう読み方をしていた時代のあることは、キリスト教会の(しかも、かつてのバプテストがその主役であった)負の歴史です。
後者については、私たちは明らかに過ちだと言うでしょう。では、前者についてはどうでしょうか?。今日の箇所に記されているのは、極めて現代的な事柄であり、単なる後日談程度では済ませられない一大事件です。聖書は、お馴染みの解釈に捕らわれることなく、いつも生きて私たちと世界へ語りかけ続けています。(お話へ続く…)