39│2023年09月24日

岡山バプテスト教会


週 句 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
聖書   ヘブライ11:16

説 教 「バベルの塔:ビビンバのような世界を作ろう」 高橋周也牧師
聖書   創世記11:1~9

「教会と塔のおはなし」
 面白いことに、最初の200年程の間、教会らしい建物とは、今で言えば、ボロボロの安アパートのようなもののことでした。実際に住民がいるところを借りていたようです。やがて教会専用の建物ができるようになってからも、多少ドームができるくらいでした。後の時代の者たちが見て「教会らしい」と思うかもしれない建物は、その時代には、皇帝の権力を誇示する裁判所でした。街の中心で高い塔を掲げて、上にある権力にたてつく者を罰する場。つまり、迫害にあっていたキリスト者をはじめ、人々の命をたくさん奪った建物でありました。ところが、4世紀にキリスト教がローマに公認されると、その立場は一変します。教会は立派になりました。しかし残念なことに、その時代には、誰と一緒に生きているのかということも、変わってしまったのです。権力と同化したということは、教会そのものも過ちを犯す側にまわったということを意味しました。
 こんなことを言っては、時代によっては大罪だったことでしょう。ここに救いがあると言えます。人の犯す過ちは然るべき時に必ず正されてきました。バベル物語の舞台にあった人々は、自分たちが「有名になろう」として、自分たちのために塔を建てる企てをしました。そういう過ちに対して、神の介入は必ず起こり続けてきたのです。それを私たちは、聖書だけでなく、史実のなかにも数々見ることができます。
 ですから、私たちは、これからも十字架を掲げ、十字架の下にいることをこそ、いつも喜びたいと思います。その本質的なところにこそ「教会らしさ」の命は輝くのでしょう。