24│2023年06月11日

岡山バプテスト教会


週 句 雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、神と地上のすべての肉なるあらゆる生き物との永遠の契約を思い起こす。
聖書   創世記9章16節

説 教 「もう誰も犠牲になってほしくないという祈りの中で」 高橋周也牧師
聖書   ローマの信徒への手紙11章25~36

「聖書を理解なんてできない、理解なんてしちゃいけない」
 教会で分級(教会学校)に参加していると、毎週のように、どなたかは必ず「今日の聖書はよくわからなかった」という感想をお話ししてくださいます。私はそれをきく度に安心します。なぜなら、聖書そのものに、「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(コリントの信徒への手紙一8章2節)と書かれているからです。逆に、「よくわかりました!」と言われると、少し心配になります。それが説教の感想だったら、「やっちゃった(失敗だったな)」と感じます。
 本日の箇所にもやはり「自分を賢い者(=知者)とうぬぼれないように」と書かれています。ふだん私たちは読書をしたり学んだりする時、内容を素早く読み理解し、よく覚えて(丸暗記して)、なるべくわかりやすく語るということを求める方が慣れているかもしれません。しかし、聖書はそればかりを求めているのではありません。むしろ、そういう人間の「富・知恵・知識」という言葉にパウロが象徴する、努力の積み重ねとか、知的な探究心とかが全く無力化されたところにおいて、神が聖書を用いて語るのです。
 私たちが生きるなかで抱える様々な葛藤とか、悲しみや苦しみ、理解し得なかったり、思い通りにならなかったりする現実の中から神に祈るとき、聖書は、神の声となって私たちの心に語りかけてきます。時代のエリートであったパウロもまた、目の前の全く思い通りにならない現実に精魂尽き果てるなか、御言葉の真理に出会ったのです。全ては神の秘められた計画(=ミステリー)であるのだ、と。