23│2023年06月04日

岡山バプテスト教会


週 句 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると 主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊 あなたの口においたわたしの言葉は あなたの口からも、あなたの子孫の口からも あなたの子孫の子孫の口からも 今も、そしてとこしえに 離れることはない、と主は言われる。
聖書   イザヤ書59章21節

説 教 「ありえないほど近くに」  高橋周也牧師
聖書   ローマの信徒への手紙10章5~15節

「聖書―参加すべきドラマ」
    いつの頃からでしょうか。「もはや戦後ではない」という言葉は、私の子ども時代(1990年代とか2000年代の前半)とは意味合いが変わってきました。戦後ではなく、「いまや戦前である(事実上、もはや戦時中である)」という認識は、悲しいことにより身近になっているように思われます。
 ロシア・ウクライナ戦争以来続く物価高騰が始まった頃、かつてアジア太平洋戦争の時代を過ごしたご年配の方々が、「あの頃と同じ空気が流れている」と言い合っていたのを、私は忘れることができません。当時も、それまで手に入っていたものが徐々に普通には買えなくなり、やがて手に入らなくなったと言うのです。そして外国人を“敵性外国人”と呼ぶようにもなりました。確かに、経済格差は帝国主義の絶頂期であった20世紀初頭の状況に急激に近似し始めました (「世界不平等報告書2022」)。また、以前から深刻であった外国人への処遇をより悪化させようとしています。残念ながら、戦前・戦中らしい人の命を顧みない、精神的な貧しさがはびこっていると思わざるを得ません。
    さて聖書は、「全ての人」に宛てて書かれました。「誰でも」豊かに、一緒に生きるためです。そこに救いがあります。誰か特定の人が強くなったり、独り占めをしたりするところに、平和は実現し得えないのです。私たちは全てが活きる神の国を語り続けなければなりませんし、為政者のために祈らねばなりません。そこに御言葉をきいている者の責任と役割があるのです。聖書は、底なしの淵のような人間の闇の中で、人間を見捨てない神の愛、人が共に生きる道を語るのです。「聖書は読まれるべき書物ではない、役者として参加すべきドラマだ」―ヘッシェル(ユダヤ教の神学者)