2022年10月16日

岡山バプテスト教会


週 句 主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。
聖書  詩編127編1節

説 教 「一緒にいるから勇気を出して」高橋周也牧師
聖書   ハガイ書2章1~19節

「何者であるかを心に留める」
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず/我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。/主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の(or普遍の)教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン。
 冒頭の言葉は「使徒信条」と呼ばれ、バプテストを除く西方教会(カトリック・プロテスタント諸派)では、クリスチャン(異端でない)というのはこれを信じる人たちのことです。最古の信仰告白の一つです。正教会など東方教会も共通の信仰告白にはニケア信条というのもあり、やはり他教派ではよく知られています。毎週の礼拝で「代々の聖徒(=すべての信徒)と共に」これを告白します。私は他教派での教会生活経験がある者ですが、これを告白する時、自分が何者であるかを確かに知らされるような気がします。
 ところが伝統的にバプテスト教会は「聖書に載っていないから」という理由でこれを退けてきました。それは使徒信条に同意しないからではなく、自分自身の言葉で告白するということを大事にしたからです。「公同の教会」とか「聖徒の交わり」という言葉には、既に天に召された方やまだこの世に生を受けていない方などの時間を超えた「共に」や、目に見えていないけれど世界中で一緒に礼拝をささげている仲間などといった空間を超えた「共に」が含まれています。ところが大変残念なことに、多くのバプテスト教会で「教会」や「交わり」を語るとき、その豊かさが忘れられているような気がしてなりません。

  聖書は私たちが何者であるのか「心に留めよ」(ハガイ書2章15、18節)と招きます。私たちが何者であるのかは、聖書の言葉が教えてくれます。主と共に歩むなら、「無に等しい者」(3節)を目に映す私たちから、「まだ種がある倉」(19節)に目を注いで生きる者へと変えられるのです。