招 詞 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
聖 書 ヨハネ 9章 1-5節
説 教 「「昼も夜もたえず」 伊藤聰牧師
聖 書 詩編 1編 1-6節
「昼も夜もたえず」
詩編は賛美や祈りの言葉を集めた、いわば賛美歌集のようなものです。旧約聖書の他の書では、人間に呼びかける神の言葉が中心となっていますが、詩編では逆に、神への嘆きと訴えが赤裸々に述べられ、賛美と感謝の言葉によって神へと立ち返ります。詩編1編は、そのような賛美歌集の導入部分に当たります。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とは、どんなときにも神のみ前を離れず、何でも神に語りかける詩編の歌い手なのです。律法を守り、罪をおかさない義人が「神に従う人」なのではありません。むしろ、神に対する嘆きと訴えが尽きることのない罪人こそが「神に従う人」となるのです。世の不条理や人間の罪深さに涙しながらも、なお賛美と感謝を忘れずに祈り続ける人は、「流れのほとりに植えられた木」のように生い茂ることができるのです。
福音書でイエスが最も多く引用している旧約聖書は詩編です。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くイエスの生き方は、詩編の言葉によって支えられていました。その極みには十字架があり、イエスは「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と詩編22編の言葉を叫んで、その救いのみわざを成し遂げられたのです。 (伊藤聰)