06 │2026年2月22日

岡山バプテスト教会


招きの詞 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適(かな)う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
聖書  ペトロの手紙二1章17~19節

説  教 「なぜ選んだのか」 伊藤聰(さとし)牧師 
聖  書  マルコによる福音書9章2-13節

「なぜ選んだのか」 マルコによる福音書9章2-13節,ペトロの手紙二1章17~19節
 マルコ福音書の冒頭には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた場面から語り始められます。マルコ福音書の前半では、イエスの宣教活動は、神の子、救い主として人々を癒し、教えることでした。しかし、8章の最後でイエスは弟子たちに受難を予告し、高い山の上でイエスの姿が変わった9章の出来事を境に、イエスは受難へと向かわれます。バプテスマのときに響いた神の声、「あなたはわたしの愛する子」が再び響き渡りますが、今回は弟子たちに向かって「これに聞け」と命じています。受難のイエスに従うように招かれているのです。神の子、救い主は、人々を癒し、教えるだけでなく、受難と復活によって人々を救うからです。しかし、イエスの受難が迫ったとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とマルコ福音書は伝えています。
 「キリストの変容」と呼ばれるこの出来事は、旧約が証しする神のみ心と、弟子たちの無理解との間に立たされたイエスの姿でもあるのです。その姿が神の栄光に包まれていることは、私たちにとって大きな励ましとなりますが、私たちもまた無理解な弟子の一人であることを心に刻まなければいけません。神が自分を選んでくださったと胸を張るのではなく、日々イエスに従うことができるように辛抱強く導いて下さる神のみ心に思いを馳せたいものです。弟子たちは、イエスの言葉を心に留めて論じ合ったと述べられています。自分もまた無理解であることを受け入れつつ、弟子たちと同じように豊かな交わりの中で、日々、神のみ心を選び取っていきましょう。