44│2025年10月26日

岡山バプテスト教会


招きの詞 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
聖書 ヨナ書4章2節

説教 「ゆるぎない愛によって」伊藤聰牧師
聖書  マルコによる福音書7章24~30節

 宣教活動を展開していたガリラヤで多くの人々を癒したイエスは、群衆を避けて休息を取る必要がありました。そこで、北の国境を越え、フェニキアのティルスまで来たのです。ところが、ティルスでもイエスを信じる異邦人が訪ねて来て、娘の治癒を懇願しました。当時、イエスはイスラエルの弱った人々を優先的に導こうと計画していたので、異邦人には冷淡に返答されました。しかし、神のあわれみにすがる異邦人の熱い信仰に心を打たれ、すぐに思い直されました。すでに機は熟していたのです。ヨナ書でニネベの人々が悔い改めたのを見て、神が「思い直された」ように、神の子イエスも異邦人の信仰を見て思い直されたのです。人々へのゆるぎない愛があればこそ、自分の考えや計画に固執せず、目の前にいる人の痛みと信仰に心を開くことができるのではないでしょうか。
 ヨナ書では、ニネベの人々が大げさなくらいに素直で忠実な人々として描かれますが、これは不忠実な神の民に対する皮肉なのでしょう。不忠実な神の民でさえも見捨てることのない神のあわれみは、すべての人々へのゆるぎない愛に根差しているのです。その愛を隔てるものはありません。
 神は思い直される方です。神の正義は自己正義ではなく、何よりも人間を優先して愛してくださることが神の正義だからです。一方、人間はご都合主義で、自分に都合がよいことには祝福があると考え、自分に都合が悪いことには罰が下されるべきだと考えます。不忠実だから、自分の都合に合わせて神のみ心を使い分けるのです。しかし、神の愛は人間に忠実です。神は、目の前にいる人が苦しみ、嘆き、悲しむのを見過ごすことができない方なのです。私たちへのゆるぎない愛こそが神のみ心であり、神の正義なのですから、私たちはこのゆるぎない愛に信頼するほかありません。