36│2025年8月31日

岡山バプテスト教会


招きの詞 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
聖書  ヨハネによる福音書15章11~12節

説教 「喜びの源」 伊藤總牧師
聖書 テサロニケの信徒への手紙一5:12-18
「いつも喜んでいなさい」と命じられている「喜び」は、楽しさや幸福感を意味する喜びではありません。「絶えず祈り」、「どんなことにも感謝する」喜びなのですから、起こった出来事に対する受け止め方、取り組み方によって、喜びが生じるということになります。つまり、苦難に直面するときに神に助けを祈り求め、共に生きる人々の支えに感謝し、現実を引き受ける生き方が求められているのではないでしょうか。しかし、そんな厳しい生き方が本当に喜びを与えてくれるのかと、いささか心配になります。では逆に、すべてが思い通りになる世界だったら、喜びを得られるのでしょうか。確かに、最初のうちは楽しくて、幸せを感じるかもしれません。しかし、やがて虚しさを覚え、生きる意味を見失うのではないか、そんな気がいたします。自分の欲望だけが現実化された世界では、他者を愛することも、他者に愛されることもないからです。苦難を通じて得られる喜びと隣人愛には、深いつながりがあるのです。
 人間は、神に問わず、人の声に耳を貸さない傲慢を抱えています。結論を急ぎ、自力で事を運ぼうとする誘惑をいつも感じます。しかし、祈りによって神と共にあろうと努め、感謝によって人々と共にあろうと努めなければ、生きる喜びは失われてしまいます。不思議なことに、祈りと感謝は喜びの源になっているのです。自己完結した世界には、豊かな交わりも、隣人愛も入り込む隙がありません。私たちは共にかかわり合う誰かを必要としています。愛する誰かのために、自分を忘れて何かを為すことができる、また、そのような働きを担うことができる私自身を素直に愛せるようになる、こういったかかわりが人生を豊かにし、深い喜びをもたらすのではないでしょうか。