16 │2025年4月13日

岡山バプテスト教会


週 句 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
聖書   ヨハネの黙示録 21章 2-4節

説 教 「ともに十字架を見上げ」 恵キリスト教会 伊藤聰牧師
聖書   ヨハネによる福音書 19章 17-27節

 ヨハネ福音書によりますと、十字架の下には3人のマリアがいました。イエスの母と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアです。ところが、イエスの母だけ「マリア」という名前が伏せられています。同様に、カナの婚礼の場面でも「マリア」の名前はなく、イエスが自分の母に対して「婦人よ」と不自然に呼びかけている点も、十字架の場面と共通しています。このように、ヨハネ福音書にはイエスの母は登場しますが、そこに「マリア」という名前は一度も記されないのです。これは単なる偶然ではありません。そこに託されたメッセージがあるのです。
 イエスが捕らえられたとき、十二人の弟子は逃げ去りましたが、女性の弟子たち、アリマタヤのヨセフ、ニコデモなどが十字架にまで同行し、イエスの最期を見届けました。聖霊こそ受けてはいませんが、それはすでに信仰共同体であったと言っていいでしょう。受胎が告知されたとき、イエスの母は独りで応答し、救いのわざをその身に受け入れましたが、十字架の下ではもはや独りではありませんでした。私たちもまた、一人ひとりがイエスと出会い、イエスを救い主として受け入れました。しかし、イエスの十字架に直面し、弟子としてキリストの受難を受け入れることは、独りで成し得ることではないのです。復活の希望に結ばれた信仰共同体の助けが必要であり、そのために教会が遣わされています。旧約において、「神の花嫁」は神の民イスラエルを指しました。ヨハネ福音書は、新約の信仰によって旧約の「神の花嫁」を再解釈し、新しい神の民である教会を「婦人」と呼び、イエスの母に重ねています。イエスを宿すのは、もはやマリアという一人の女性ではなく、「母なる教会」なのだというメッセージを読み取ることができるのではないでしょうか。