10 │2025年3月2日

岡山バプテスト教会


週 句 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ
として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
聖書   ローマの信徒への手紙12章1節

説 教 「我らがゆるすごとく、我らの罪をと祈るけど・・・」 高橋周也牧師
聖書   マタイによる福音書18章21~35節

「赦しを選ぶ」
 2006年秋、あるアーミッシュの学校に男が侵入し、児童を次々と銃で襲い、10名が死傷する痛ましい事件が起こった時、その事件当日の晩に複数のアーミッシュが犯人の両親のもとを訪れ、「私たちは赦します」と宣言しました。そのことが事件そのものの衝撃とともに波紋を引き起こしました。驚いた人々の非難の矛先は、犠牲者やその家族に向かいました。「そんなに簡単に人を赦せるものか」と訝り、あるいは、「それは本当の赦しではない、(アーミッシュはキリストの教えに忠実であろうとする人々のコミュニティーなので、)彼らは義務でそう言っているだけだ」と訳知り顔に話す者たちもいたのでした。犯人の母テリーは、クリスチャンであり、事件後、負傷した女の子たちを毎週見舞い、多くの時間をアーミッシュの人たちと一緒に過ごすなかで、それまで知らなかった神の愛を体験したと振り返ります。
 さて、確かに、赦しとはそう簡単なものではないでしょう。単純な美談に貶めてもならないでしょう。けれど、アーミッシュたちが、天の国の赦しを地上で実践しようとしたことは、これもまた同様に確からしいことと言えるのではないでしょうか。
イエス様の「7の70倍まで赦せ」という言葉にふれて、「では私たちは何度、娘を殺された夕方に、それでも犯人を赦しますと伝えに行けるだろうか?」と問うのは、おそらく正しいことではありません。今日の箇所が伝えてくれていることは、そのようなことではなく、もう赦しは常に与えられており、私たちすべてを包み込んでいるのだということです。
 キリストの教会は、そのからだなる私たちは、赦しを選びつつ生きます。イエス様が私たちのために、あの十字架を通して「神はあなたたちを赦しています」と伝えてくれたのを信じているのです。それがすべてのすべてです。