40 │2024年10月13日

岡山バプテスト教会


週 句 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
聖書   ヤコブの手紙5章 16節

説 教 「耳を澄ませば」 高橋周也牧師 
聖書   エレミヤ書6章13~17節

「教会は時代の預言者チーム」
 2020年にその当時の教会員の皆さんが、牧師として私を招聘してくださるにあたり、「岡山バプテスト教会の自己紹介」を頂きました。そのなかには「新しい牧師に期待すること」との項目があり、説教について書かれた欄には、「現代社会や政治的問題をも語る」という一文がありました。しかし、実際には、書かれていなかったご意見もあることがわかりました。逆に、牧師は現代社会や政治的問題については語るべきではなく、聖書の話だけでよいという声です。
思うに、どちらの意見も、聖書がまっすぐに語られることを期待しているようです。ただし、どちらの声にも多少の課題を感じます。
 前者については、そもそも聖書は、具体的な時代の社会や政治的問題と密接に結びついて書かれたものだということが挙げられます。確かに、聖書と関係なく、何かの話材が取り上げら、個人の意見披歴の場とされてしまうようなことがあれば、大いに問題があります。仮に、会衆がそれを喜んでいるなら、もはや神ならざるものが偶像化されてしまっているとも言えるでしょう。一方で、そうかといって、後者の意見に沿い、現代社会や政治的問題を排除すれば、聖書を福音として語り続けることはできません。聖書のメッセージ、とりわけの預言者の言葉の本質は、王や為政者たち、民に向かって、いつも「神に立ち返れ」でした。実を言うと、それこそがまさに政治的発言だからです。イエス様が十字架刑に処せられた理由もまたローマ帝国にとっては政治的理由でした。神の言は、教会で、そして教会から社会へ向けて語られます。
 語る者の責任が重大であることは言うまでもないことですが、本日の聖書箇所(エレミヤ6章)からは、きく者たちが耳を澄ませることの大切さを感じます。預言とは、教会全体の出来事であり、全員で担う一つの奉仕なのでありましょう。