11 │2024年3月17日

岡山バプテスト教会


週 句 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
聖書   コリントの信徒への手紙一9章 23節

説 教 「楕円形」 高橋周也牧師
聖書   ヨハネによる福音書18章28~38節a

「礼拝そのものがストーリー」
 礼拝式は、その初めから終わりまでが1つの物語であると言えます。「礼拝はドラマである」という言い方の方が一般的かもしれませんが、毎週の巻頭言の題と揃えるために、上のような表現にしてみました。礼拝は、神からの招きと人の応答とが、交互に織り込まれて進んでいくのです。私は前奏の時間がたっぷりほしいと思います。毎週の前奏の間、神様の招きを受けているのです。目を閉じて1週間の自分の生活を振り返っています。愛せなかった自分、足りなかった自分が、それでも主にゆるされて生かされた喜びと感謝をかみしめます。そして、再びイエス様の前に招かれたこと、そして、礼拝の一時間を精一杯神様のためにささげようという準備をするのです。
前奏で神の招きを受け、招きに応えて神を賛美する。神の言葉を交わす。それに応えて司式者と祈る。皆で賛美をする。聖書朗読と説教によって、神の言葉が読まれ、私たちを招く。そして、この後、私たちは応答の賛美を歌い、祈り、ささげる。そして、祝祷と後奏をもって、私たちはいつもの生活へと送り出されていくし、実はそこにも、先回りしてもう日常生活に招いている主の姿があるのです。
だから、礼拝は最初から終わりまでを大切に過ごすものです。望ましいことではありませんが、どうしてもやむなく途中から入って来る場合には、わざわざ会釈や挨拶をして他の人の礼拝を妨げてはなりません。礼拝は、神が招いてくださり生きていく、そんな私たちのいのちそのものの姿を再現しているストーリーなのです。