週 句 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災(わざわ)いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
聖書 エレミヤ書 29章 11~12節
説 教 「イエスが住んで、始めたこと」 高橋周也牧師
聖書 マタイによる福音書4章12~22節
「イエス様のなさったこと」
私がかつて中学・高校の宗教科を教える幾人かの先生の授業を見せていただいた際、普段は教会の牧師であり授業の時に学校に来る講師と学校の専任教員との間には、ちょっとした違いがあることに気づきました。あくまで、私の限られた中での感想にすぎませんが、前者の授業(お話)は、イエス様に出会うところにお話しのゴールがありました。おそらく無意識に。それは今朝の箇所で言えば、22節までで終わるあり方です。後者の授業は、今この世界にいる人間が命と尊厳・権利を守られて生きることについて考えさせたりするものであって、教会風に表現すれば、いかに福音の喜びを生きるかということかもしれません。それは、例えば、今日の箇所の範囲外となってしまった23節以降のことです。
イエス様はカファルナウムにお住まいになり、ガリラヤ中で、教え、宣べ伝え、癒やしを行いました。宣教には、伝道(ケリュグマ)と、どう生きるかの実践や教育(ディダケー)の両方が必要なのですが、どうもキリスト者マイノリティの日本では、まずは福音を知らせる(しかも「教える」)ということの比重があまりにも大きいように思います。そう言いつつ、私も、礼拝の聖書箇所が長くなりすぎることも避けたいがために、今回は『聖書教育』誌の区切りに従っています。
改めて、イエス様がなさったことに注目するとき、イエス様は、ガリラヤに「退き」、その町に住み、歩き、一人ひとりをご覧になり、お呼びになりました。そうしてイエス様が形成した弟子集団は、暴力と抑圧のヘロデ王のあり方からは「退いた」ものです。それに基づいて歩むことは、どんな命も軽んじられずに尊重される「天の国」的なことでした。漁師たちの行動にではなく、漁師たちをその献身に駆り立てた事柄は、価値高いものだったのです。