48│2023年11月26日

岡山バプテスト教会


週 句 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。
聖書   テモテへの手紙二2章 11節

説 教 「ボロボロの救い主」  高橋周也牧師
聖書   イザヤ書53章1~8節

「ボロボロの救い主」
 伝統的にキリスト教会は、本日の聖書箇所(イザヤ書53章)が描く「主の僕」の姿を、私たちの救い主イエス・キリストというお方を示すものとして読んできました。イエス様こそがこの預言の成就だということについて、キリスト教徒は誰も異議を唱えないでしょう。今日の箇所を読んで、十字架におかかりになられたあのお姿を重ね合わせないわけにはいきません。それは自明のことです。また、ここに描かれているお方は、私たちの罪をみんな負うて、羊のように(無力さの象徴)ただただ打たれて死んでいった、という意味のことも書かれています。このことは「贖罪」とか「罪の贖い」と言います。教会の中でしか使われないような言葉ですが、キリスト教の根幹にある大事なところです。今日の箇所はそれほど大切なので、旧約聖書のなかの新約聖書と呼ばれることもあるし、ここからキリスト教が始まるんだとさえいう人たちもいます。
 一方で、私たちが「旧約」聖書と呼ぶ書物を継承し、イザヤ書を語り継いできたユダヤ教徒にとって一般的な読みは、ここに書かれていることは、イスラエルの民のことであり、預言者第2イザヤの生きた時代・世界のことについて言及しているというものです。だから意地悪な言い方をすれば、ここにイエス様を当てはめるのは、私たちキリスト教徒の都合にすぎません。
 一旦、「今日の言葉はイエス様の事だ!」という先入観を外してみましょう。それから後でもう一度そのフレームを戻してみます。今日はその際に、使徒言行録8章でこの箇所について「わからん!」と言っていた「エチオピアの宦官」と、彼に福音を伝えた弟子・フィリポに手伝ってもらうことにしましょう。(お話へ続く)