招 詞 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
聖 書 マタイによる福音書9章 10~13節
説 教 「その愛を知ること」伊藤聰牧師
聖 書 サムエル記下12章1~15節前半
サムエル記下の11~12章には、ダビデ王が犯した罪とその顛末が
ありのままに語られています。ダビデは謀略を重ね、表向きには不義
の隠蔽に成功しました。しかし、預言者ナタンの叱責によって我に返
り、ダビデは悔い改めます。権力の頂点に上り詰めたダビデでした
が、羊飼いだった頃に心に刻まれた神への揺るぎない献身は消えてい
ませんでした。権力をほしいままににし、傲慢の罪に陥った今も、な
お、ダビデは神の愛を知っていたのです。
ダビデの悔い改めの言葉は、「わたしは主に罪を犯した」でした。
バト・シェバとウリヤ、巻き添えとなって戦死した兵士たちに対する
謝罪の言葉はありません。また、本文には、バト・シェバの内心を知
るような手がかりがほとんどなく、ウリヤについても忠実な兵士であ
ったこと以外には何もわかりません。この場面では、神のみが裁き手
であることが強調されているのです。バト・シェバやウリヤも含め
て、神が一人ひとりを裁くのです。
預言者ホセアは、「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではな
く、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と述べまし
た。しかし、イエスはこれを「わたしが求めるのは憐れみであって、
いけにえではない」と言い換えています。旧約では、神の愛(ヘセ
ド)を知り、献身(ヘセド)によって応えるよう求められています
が、イエスは、その愛を隣人に向けるようにと明確に教えているので
す。