24 │2024年6月16日

岡山バプテスト教会


週 句 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
聖書   マタイによる福音書5章44~45節

説 教 「生活の支え」  高橋周也牧師
聖書   コリントの信徒への手紙二5章16~21

「ストーリーのすれ違い」
    初期の教会では、キリスト信仰に入る時に以下の洗礼定式なるものを宣言しました。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。―ガラテヤの信徒への手紙3章より
   パウロはコリントの信徒への手紙二5章において、「肉に従って」誰のこともキリストのことも知ろうとはしないと語ります。パウロとコリント教会の溝が結局埋まらなかったのは、言葉の行き違いに原因があるかもしれません。(つまり、パウロは自分の論敵が「肉に従っている」と判断していたからこう書いたのでしょうが、)「みんな平等だ」というのは、敢えて平たく上下で表現してみるなら、パウロのような時代のエリートにとっては「上から下にさがること」です。一方で、コリント教会員たちは、元来その多くが社会階層の中で「下」に属する者たちであり、平等は「下から上へあがること」を意味しました。「下」の社会階層に属することはシビアに現実の命・生活に関わりますから、彼らにとってみれば、「肉のこと」も「神の義」の発露の一つです。おそらく、それはパウロには理解しにくいことでした。
    長い間、文字を書き残すことのできたパウロの主張だけが一方的に正しいものとされ、また、コリント教会の指導者たちは、現世利益的偏重で不思議体験によって信仰の篤さを測る「熱狂主義者たち」だとの解釈(説)ばかりが広まり、断罪されてきました。しかし、そこで暴力的に沈黙させられてきた声に対する想像力をもつことこそ、実はパウロが主張する「肉に従」わないために必要なことではないでしょうか。