週 句 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
聖書 ヨハネによる福音書21章6節
説 教 「イエスは主である」 高橋周也牧師
聖書 コリントの信徒への手紙一12章1~11節
「務めと働き」
本日の聖書箇所(コリントの信徒への手紙一12章)を読みながら、パウロの助言を必要としていたコリント教会の姿を想像していました。パウロの危惧は、信仰が個人主義的になりすぎること、それによって教会の一致が乱されることにあったのでしょう。務め(5節:ディアコニア/奉仕)や働き(6節:エネルゲイア/力を与える働き)には、それぞれいろいろありますが、すべては同じ主の霊によって恵みとして与えられた「賜物」なのです。しかし、それがまるで人間の能力とか才能と取り違えられた時、何かがずれていったのでしょう。「全体の益」のために用いられなければなりません。
ところで、こういう話になると、「○○する・できる」ということにばかり気持ちが向きがちではないでしょうか。しかし、「○○しない・できない」ということもまた賜物なのです。私は神学校入学直前に3ヶ月ほど、自活できずに、教会の人たちから、家も居候で、とにかく頂いてばかりの生活をしたことがあります。それは永遠に覚えておきたい大切な記憶で、とてもありがたいことだったのですが、同時に、自分で選べないで、もらったものばかりで生きるということがどれだけ辛いことかを知った時でもありました。例として適切ではないかもしれませんが、受ける者がいてはじめて、何かをする方の賜物にも意味があるのです。
ところで、聖書にはこんな面白い言葉があります。「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」(箴言6章6節)勤勉にコツコツ働け!というようにも読めますが、蟻観察の科学の歴史が発見したことは、働きアリには必ず2割の「遊びアリ」がいて、その存在がなければ群れ全体が滅ぶということでありました。ありとあらゆる生き方が神に与えられた務め・働きなのです。