17 │2024年4月28日

岡山バプテスト教会


週 句 わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。
聖書   列王記上17章1b

説 教 「炎上覚悟―パウロの生き方改革」  高橋周也牧師
聖書   コリントの信徒への手紙一9章19~27

「“ように”は無用」
 コリントの信徒への手紙一9章22節aについて、聖書協会共同訳(2018)と新共同訳を比べてみましょう。
  ・弱い人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。(協会共同訳
  ・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。(新共同訳
 すぐに気がつくことは「ように」が消えてしまったことです。実は協会共同訳が原文に忠実と言えます。パウロは、弱い人っぽくなったのではなくて、弱い人になったのです。これは大きな違いです。イエス様もそうです。人間のようになって世に来られ、死んだようになったけれども復活したのではなく、まことの人として世に来られ、十字架に死に復活したのです。これは、信仰を哲学的に理解しようとしたギリシア人たちへの抵抗だったかもしれません。そして私たちは、キリストを信じている者の「ように」生きるのではなく、キリストを信じる者として生きるのです。キリストが命を賭けてくださった者の「ように」生きるのではなく、キリストが命を賭けてくださった者として命を使うのです。これが本日の箇所でパウロが勧める生き方の根幹です。
 では、私たちは、いったいどのようにしてその道に従って(cf.使徒9:2)生きるのでしょうか。「こういうものですよ」と法や徳を教えられても、その通りに生きられるとは限りません。そうかと言って、行いだけでも中身がないことになります。信仰は、実際にそのように生きる。それは単なる心がけの心機一転や、考え方の転換でもありません。「得る」ためには捨てることも伴います。信仰は、捨てる(ささげます!と祈り明け渡す)ことで、新しく神様が祝して与えてくださるものを受け取り直すものなのです。