14 │2024年4月07日

岡山バプテスト教会


週 句 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
聖書   イザヤ書53章5節

説 教 「行ったり来たり」  高橋周也牧師
聖書   コリントの信徒への手紙一1章9~18

「コリント教会のストーリー」
 今週からしばらくの間、コリントの信徒への手紙を読むことになりました。先週までヨハネによる福音書を読んでいた時と同じように、ここにも教会のストーリーがあることを意識しておきたいと思います。とはいえ福音書のように、文字通りストーリーとして描かれたのではありません。コリントの信徒への手紙について言えば、西暦50年頃(イエス様の死と復活から、まだ20年くらいの時代)に書かれました。その頃の教会は出来立てほやほやで、しかもまだまだ各地に、教会が新しく生み出されていった途上の時代でした。生まれたばかりの教会は、生き生きとして何の問題もなかったわけではなくて、むしろ教会が始まってみたら、頭を抱えるような手に余る問題が山ほどあったのです。そこで教会(イエス・キリストを信じる者たち一人ひとり)は、どのように生きるべきかに悩みつつ、誤りを持ちながらも、祈りつつ助け合いつつ、共同体をたてあげていきました。その時代に、キリストを信じる者たちが、海越え山越え遠いところを互いに行ったり来たりしながら、やり取りをした生き生きとした言葉が、この「手紙」に記されていると言えるでしょう。ですから、何かキリスト教のルールブックや教科書のようにして読むのではなく、この「手紙」は、教会に集っていた人々の姿を意識しながら読むように心がけてみたいと思います。今朝の箇所は、クロエの家の者たちからまずお悩み相談があり、それに対して、パウロとソステネが記しているお返事です。
 さて、まず初期の教会を分裂の混乱に引き込んでしまったのは、皮肉なことに、指導者の影響力でした(本人たちに問題があるというより、その周辺の人々に課題があったと言えます)。救うのは、人間の知恵や賢さではなく、十字架の言葉だったのです。