週句 草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
聖書 イザヤ書40章08節
説 教 「新しい宣教のリーダーズ」 高橋周也牧師
聖書 ヨハネによる福音書15章1~17節
「オリジナルのビジョン」
ヨハネの福音書をヨハネの教会が記した教会のストーリーという視点で読むと、15章は、イエス様の告別説教(13~17章)の一部であると同時に、ヨハネの教会が目指した共同体のビジョンを示しています。イエス様の逮捕、裁判、死に先立って弟子たちに語りかけられたこれらの言葉は「互いに愛し合いなさい」というただ一言に尽きます。この教えは、マタイやルカと比較した場合、とりわけヨハネの教会においては、何か倫理的な教えというよりも、関係性を示すものだとしばしば言われます。ヨハネにおいて、キリスト者の相互愛は、イエス様の愛を模範とし、それに倣うようにと促されます。まず共同体(教会)の中に焦点が当てられており、イエス様はそのメンバーに対し、僕ではなく友と呼ぶことによって愛しています。そのあり方がメンバー同士の愛し合いだというのです。
イエス様はぶどうの木であり、イエス様を愛する者はぶどうの木の枝であり、神様はそのぶどうの木を養い手入れをして実を育てる農夫です。イエス様と神との関係、イエス様と教会共同体との関係、教会共同体のイエス様との関係を表しています。その関係は「友」である、と。「友である」というのですから、教会共同体の一人ひとりは有機的関係であるのです。誰か特定の人の功労とかで成り立つのではない。しかも、当時のぶどうの育て方における枝とは、地を這いながらどんどん丸く絡まり合いつつ伸びていくものであり、その枝のかたまりは分離できないし、どこからどこまでが一つの枝かも実はよくわからないのです。同じ木の結果としてのみ、果実は実るのです。固い言葉で言えば、位階制の否定です。位を付けたり、上下を付けたりするのは、ぶどうには不可能です。これが新しくいのち満ちた世界を開くと信じたのです。