週句 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
聖書 エステル記4章13~14節
説 教 「この時のために」 高橋周也牧師
聖書 ヨハネによる福音書12章27~36節a
「選ばれた者のストーリー」
今日の箇所(ヨハネによる福音書12章27節以下)は人の顔が感じにくい。イエス様と言葉を交わす相手は「群衆」。イエス様のエルサレム入城を歓迎したのに、イエス様を十字架につけろと叫び、ほどなく後悔する。しかし、イエス様は「すべての人をご自分のもとへ」とおっしゃり、その十字架は群衆のためのものでもあることが示されて福音の豊かさに驚きます。顔の消えた群衆は暴徒にもなり得ますが、しかし先の2.11集会の講師が教えてくださったことの一つは、「私」の集合としての「私たち」の大切さでした。すなわち、陰に隠れ合うために「私たち」になるのではなくて、一人ひとりの「私」が意思をもって言葉を交わし合い、祈り、連帯する「私たち(群衆)」にもなれるのです。
「しかし、私はこの時のために来たのだ」というイエス様の言葉に、私は佐藤彰師のことを思い出します。原発から5キロのところにあった福島第一聖書バプテスト教会は、数年に亘り過酷な「流浪の民」となりました。その出発にあたり、師は、死をも厭わず進む旧約の王妃エステルの姿に励まされ、自分がクリスチャンとなり牧師となって30年を歩いてきたのは「この時のため」だったのだと確信したというのです。決して軽々しくきけない言葉です。実際、大変な苦労をなさるのです。新築1年で会堂を失い、生活の基盤も奪われ、総出で吹雪の山越えをした日もあり、奥多摩で1年以上の共同避難生活も経験し、やがて新しい土地で会堂再建に乗り出す。教会を立ち上がらせ続けたのは「雷」ではなく、信仰と、度重なる奇跡でした。
教会を建てる(作る)のは、主の業と私たちの信仰です。「私たち」岡山バプテスト教会一人ひとりも、「今この時のために」選ばれてここにいるのです。