03 │2024年1月21日

岡山バプテスト教会


週 句 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。
聖書   エレミヤ書17章9、14節

説 教 「逃げるは恥だが福音に立つ」  高橋周也牧師
聖書   ヨハネ4:1~26

「出会いのストーリー」
 ヨハネによる福音書4章でサマリアの女性に接する時、私たちは誰とであっているでしょうか。かつては、この女性が5回も不倫を繰り返したかのような描写が、世界中の教会で受け入れられていました。しかし、その読み方には根拠がなく、偏見に満ちています。私はその名誉毀損に反対です。
 学者たちによれば、5という数字には、サマリアという地域が抱えた悲しい物語があります。紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡した際のアッシリアの捕囚政策のために5民族との雑婚が起きました(列王記下17章24節)。そのことで、純血主義のユダヤ人からは軽蔑の的となったのです。
 もう一つ、背景として考えられるのはレビラート婚(申命記25章5節)の風習です。夫婦に子どもがなく夫が死んだ場合、妻は夫の弟と再婚し、後継ぎをもうけなければならないという掟がありました。5回も夫を亡くすとは、大変悲しいことです。けれど悲しいことに、今日でも世界中で家族を天に送らねばならない人々があります。しかし、それでも彼女は生きなければなりませんでした。今は寄り添ってくれる人がいるものの、その人と一緒にいることは、社会的には認められなかったのです。レビラート婚については、マルコによる福音書12章19~24節に、サドカイ派の人々がイエス様に仕掛けた問答にも反映されています。次男、三男、四男、五男、六男、七男までずっと再婚し続けたら、いったい女性は誰の妻なのかという下品な議論です。
形骸化した宗教というのは、かくも人の心の救いになるどころか、人間を疎く鈍くしてしまうものでしょうか。しかし、主イエス・キリストは、人間を人間として解放してくださるお方です。私たちは、いつも、自分や周囲の誰か、そして、世界のあらゆる人々の深い心の渇きや傷つきに、無頓着でありたくありません。主は全ての人を見つめ続けていてくださいます。