47│2023年11月19日

岡山バプテスト教会


週 句 ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
聖書   ルカによる福音書17章32~33節

説 教 「石の顔は向かい合うため」  高橋周也牧師
聖書   イザヤ50:4~11

「子ども祝福礼拝について」
 本日は「子ども祝福礼拝」をいたします。昨年まで「成長感謝礼拝」と呼びましたが、より元の意味合いに近い呼称を採用することにしました(キリスト教の前身・ユダヤ教の習慣に基づいています)。これを機にこの行事の意味についてご紹介(再確認?)しておきましょう。
 なぜなら、この行事は、お宮参りその他の伝統・習慣とも近接したものでもありますが、他の宗教・教派・文化で行われるものと見た目に同じようであったとしても、殊に私たちバプテストにとって、根幹に関わるところで緊張感のあるところだからです。いわゆる「宗教2世」問題が取り上げられている昨今ですが、まさにその点において、既に400年以上も前に私たちバプテストの先人たちは命懸けで闘ったのでした。つまり、人は皆、神に応答して「自分の意志でそう決断するからキリスト者として生きるのだ」ということを大切にするバプテストの信仰は、「キリスト教徒の家庭に生まれた子は当然にキリスト教徒である」ことを示す嬰児洗礼を拒否します。そういう性質の教会(信仰・契約共同体)なので、そもそも当然に子どもたちの信仰の自由は担保されていなければなりません。ここには大きなこだわりがあり、例えば、子どもたちに教会の後継ぎを期待するような発言も原則御法度です。そのはずですが、親(大人たち)の願いというのもありますから、正直「宗教2世」問題が他人事とは思えなかったというのが、多くのバプテスト教会の大人たちの現実だったかもしれません。 
 子ども祝福の祈りは、親は子を、子は親を、神の御手に委ね受け取り直す祈りです。どんなに親しい親と子も別人格であり、人と人の間には神が介在します。ただし、人は皆、教会の祈りと交わりの中で育て・育てられていくものと捉えます(教育ではなく「共育」)。目の前の命が与えられていることに感謝し、改めてであいを喜び、祝福を祈る。そのような時として、この行事を大切に過ごしましょう。