46│2023年11月12日

岡山バプテスト教会


週句 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
聖書   ヨハネによる福音書1章11~12節

説 教 「手のひらをみてみよう」 高橋周也牧師
聖書   イザヤ書49章16節

「神の言=解放の声」
 かつて戦後のドイツで、カール・バルトという有名な神学者はこう語りました。
 「1933年のドイツでは、極めて真剣で・深遠で・生き生きとしたキリスト教と信仰告白が存在していました。-神に賛美と栄光あれ!―しかし、残念なことには、このようなドイツの教会の信仰と告白の行動は、教会の言葉の中で立ち往生したままだったのです。この教会の言葉によってすばらしく語られたのと同一のことを、当時、求められていた政治的態度決定へ翻訳することがなかったのです。その態度決定において、福音主義教会はナチズム(=国家社会主義)に対して<否>と言うべきであり、・・・」(カール=バルト〔1886-1968〕、天野有・宮田光雄訳『教義学要綱』新教出版社、2020年。)
 今朝の聖書箇所はイザヤ書49章です。教会学校では1~6節、礼拝説教では16節に一点集中することにしました。いずれも、神の言を「きく」者たちに、具体的に新しい生き方を促した言葉といえるでしょう(聖書はいつでもそうかもしれませんが)。神の民の歴史においては、バビロン捕囚からいよいよ解放され、50年ぶりに帰還する場面に当たります。しかし、そこで人々は、こんなんにぶちあたることになりました。置かれた状況の中で神の言を信じることは、あまりにも難しいことに思われたのです。しかしそう感じられたのは、彼らが50年間慣れ親しんできた奴隷マインドで生きていたからかもしれません。
強いものがはびこる世界において、神の民は、奴隷マインドを脱して生きるよう招かれています。(お話へ続く)