45│2023年11月05日

岡山バプテスト教会


週 句 そのとき、わたしは玉座(ぎょくざ)から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋(まくや)が人の間(あいだ)にあって、神が人と共に住み、人は神の民(たみ)となる。神は自(みずか)ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆(なげ)きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
聖書   ヨハネの黙示録21章3~4節

説 教 「さあ、パーティーの始まりだ!」  高橋周也牧師
聖書   イザヤ42章10~17節

「新しい歌をうたおう」
 召天者記念礼拝にようこそいらっしゃいました。この礼拝は、年に一度の恒例行事で、特に召された(一般的な表現で言えば、亡くなられた)方々を偲ぶことを大事にしたものですが、実はそもそもキリスト教信仰においては、生と死を超えて、毎週の礼拝に召天者の方々が共におられ、一緒に礼拝をしているのです。そしてもう少し言えば、主イエス・キリストは、生と死を超えて、全ての人と共におられるので、私たちが主イエスと共にいると信じるならば、先に召された方々もいつでも共にいることを信じることになるのです。日本の風習ではお彼岸になると死者も生者も実家に帰省をします。それよりはもう少し自由度が高いですが、似たところもあるでしょうか。
 本日読まれるイザヤ書42章は、世界史的大事件であるバビロン捕囚からの聖書の民イスラエルの解放を背景としたものです。教会学校では1~9節、礼拝説教では10~17節が読まれます。ここで民は「新しい歌」をうたうよう誘われます。解放・救いの喜びの歌は、政治的・具体的には、イスラエルを捕虜としたバビロンをさらに占領したペルシアのキュロス王によってもたらされました。「神の民の益になることをしてくれた」という理由から、キュロス王のことを「主の僕」扱いする読み方が一つの主流です。ただし、軍事的・経済的に強い国のリーダーをこそ主と同一視し、その支配は世界中隅々にまで及ぶとした解釈が、偏狭な人間理解に繋がったり、悲しい歴史を作り出したりことにもまた注意が必要です。主はそうした人間的な「強さ」の反対側におられるお方だからです。悲しみや孤独といった嘆きから、本当の希望に満ちた「新しい歌」が生まれます。