42│2023年10月15日

岡山バプテスト教会


週 句 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。 
聖書   マタイによる福音書20章 16節

説 教 「独り占めはダメ」  高橋周也牧師
聖書   イザヤ書5章7~10節

「主よ、来てください」
 『聖書教育』誌に沿って、「ぶどう畑」というテーマで選定されたイザヤ書の箇所を読み進めるというユニークな試みをしています(私も今号の執筆者の一人ですが、箇所選定や企画の担当者ではありませんでした)。
 10月に入って以来、イザヤ書3章5章と読み進めてきましたが、自主的に1章から順当に今朝の箇所(5章7~10節)までをお読みになったとしても、預言者イザヤがなぜ預言者になったのかは書かれていません。その召命記事は6章にあるからです。そこは本来なら避けては通れない箇所のような気がします。本日の箇所以降24節までとの関わりで言えば、「家に家を重ね、畑に畑を重ね」たり、昼間から(誰かから搾取した金で)酒に酔ったり…などして、神を軽んじていると非難された古代イスラエルのエリート層のひとりが、紛れもなくかつてのイザヤであったに違いないからです。
イザヤ書6章において、イザヤは神とのであいを経験します。それは生涯が大変革されるほどの濃密で衝撃的なであいだったのです。預言者たちはいつも数々の苦難の渦中に派遣され、本当に困りながら、自分のできなさを突きつけられながら、「主がおっしゃるのだから」という理由で歩みだしていくのです。イザヤもその一人でした。
 さて、教会やクリスチャンという人たちは、その預言者の務めを全員が託されていると言われます。その務めとは、きっと人間の気合いや体力や持っている富や力によらず(でも、遂見えるのでこちらを信じたくなる)して、一人ひとりに与えられる主との出会いに突き動かされたり、支えられたりしてようやく成り立つものであり、それが信仰なのでしょう。