週 句 園丁(えんてい)は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』
聖書 ルカによる福音書13章8~9節
説 教 「おいしくなーれ」 高橋周也牧師
聖書 イザヤ書5章1~6節
「ぶどう畑の人々」
今朝の箇所(イザヤ書5章1~6節)は、預言者イザヤによるもので、1~2節の「わたし」はイザヤ、3節以降の「わたし」は神を表していて、愛情込めてぶどう畑を手入れする神と、それに対する神の民の背信を描いた審きの言葉です。取りようによっては、一方的に人を愛しておいて、御自分の思い通りにならなければ放任する虐待・ネグレクトの神と感じられるかもしれませんが、もう少しこの言葉に向き合ってみたいと思います。
ところで、実はこの言葉は元来、女性の口から出たものであったと思われます。ぶどう畑で歌うことは、古代イスラエルの女性たちの大切な務めでした。それは収穫感謝の歌い踊りであり、身内の者たちだけでなく「奴隷」や寄留者(外国人)、孤児、寡婦などと共に祝われるべきものでした(申命記16章13~15節)。ぶどう畑そのものがイスラエルの喩えでもあり、神の民イスラエルの共同体全体が、生きること全般において、これを求められていたと言えます。ところが、実際の指導者たちの姿は、それとは正反対でありました。「弱い者の訴えを退け、貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなしごを略奪」(イザヤ書10章2節)し、土地の実りを「独り占め」(同5章8節)にしていたのです。既にイザヤ書より更に前の時代の歴史の中で、そのような者たちの支配の下によって、イスラエルの女性たちは、まさにぶどう畑で歌う場面において酷い目に遭いました(士師記21章参照)。
人はどんなに自分で何かを掴み取ったように思っていても、全ては神から与えられているにすぎません。この歌は、それを忘れて、人と人を切り離し、命に条件を付けることによって自分の命を守ろうとすることは民全体の荒廃・干ばつ(渇き)に繋がると警告しているのです。