週 句 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章14節、17節b
説 教 「ちょっと待ちなさい、まだ仕事が残っています」 高橋周也牧師
聖書 創世記4章13~26節
「聖書を読むとき、どこにいるのか」
先週の説教では創世記4章前半の物語を扱い、アベルとアベルのささげものを顧みた神は、カインとアベルに対して本当の意味で公平だったのであるという切り口からお話をしました。根拠をもって話したことでしたが、ひとときの時代に流行した解釈とは異なっていたようです。その説教はYouTubeにも公開され、Facebookでも宣伝してくださいましたこともあってか、思いのほか教会の内外から反響をいただきました。ある遠方にお住まいの方はわざわざお電話をくださり、ついでに何本かこれまでの説教動画をご視聴くださったそうで、「大きな神様の愛を感じました。こころの底でいつもと違う元気が出ました」と、うれしい感想を述べてくださいました。
聖書は、どんな説教者・解説者が語っても、正解は存在せず、一つの読み方・説・解釈にすぎないのです。だから私たちは謙虚にあらねばなりません。ただ、知っておきたい大前提として、どんな事情があれ、神はある人を多く愛し、ある人を少なく愛する。そんなことはあり得ません。そのことは信じ尽くしてよいでしょう。その安心のうちに神の言葉にきき、(誰かと比較して、という意味ではなく)自分が多く愛されたことに気づき、自分もまた神や他者を多く愛そう、多く応えようとするならば、大変すばらしい喜びです。
さて先週の私たちは、自らもカインであることに気づくことが肝要でした。しかし今日創世記4章後半を読む私たちは、今度は、カインのように生きようとしていないかを問われます。この物語を綴った人々もまた彼らの時代の中で、大国に囲まれながら国や神殿づくりを行いながら、何をもとに私たちは生きるのか―富や力や軍事力か、あるいは主の名を呼び平和を求め礼拝に生きることか?―そう吟味(自己批判)しつつ生き、私たちに言葉を語り継いだのです。