週 句 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
聖書 ローマの信徒への手紙8章 34節
説 教 「イエス・キリストの真実によって」 高橋周也牧師
聖書 ローマの信徒への手紙3章21~31節(聖書協会共同訳)
「神と人に大切に向き合いたい」
「福音と世界」というキリスト教の雑誌を定期購読しているのですが、2023年5月号に、沖縄で暮らす柴田かおりさんという方が寄稿しておられました。その記事の一部に書かれていたことで、中心的な主題ではなかったのですが、私の認識を覆される内容がありました。それは昨年2022年に「沖縄復帰50年」の年を迎えたことについてのことでした。沖縄の柴田さんのもとに、「当事者の意見を聞きたい」とのことで、何度も原稿や講演の依頼が来たそうですが、「沖縄が復帰しなくてはならなくなったのは日本側の都合であり、復帰の『当事者』とは日本のわたしたちということをお伝えしました」(p.29)とありました。それを読んで、私の心の中に、知らないうちに「切り離し」があり、それが大切なことを逆転させていることを突き付けられた気がしました。投げかけてくださることがあり、それをきいた者が何かを感じ応答していく、一緒に生きていくというところで、本当に「真実な言葉」が生まれるし、新しい道が開けるはず(そうあってほしい!そうありたい!)と思いました。
今日は、新しい試みとして、いつも私たちが用いている新共同訳(1987年出版)と、2018年に出版された「聖書協会共同訳」を読み比べてみたいと思います。この翻訳の“違い”のなかにも、単なる言葉遊びや改訂ではなく、私たちがどのように神と向き合うのか、人間同士が一緒に生きていこうとするのか、という問いかけが含まれているように思います。信仰の書として聖書を読む私たちとして、信仰のセンスをはたらかせながら、「新訳」に触れてみたいと思います。