週 句 苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
聖書 ルカによる福音書 22章15節
説 教 「だれがしようとしているのか」 高橋周也牧師
聖書 ルカによる福音書22章14~23節
「肉もぎ取られる祈り―神の愛」
みなさんは最後の食事を誰と一緒に、どこで何を食べて過ごしたいでしょうか。イエス様はその大事な食事について、十字架の苦しみをお受けになる前に、使徒たちと共に過ぎ越しの食事をしたいと切に願っておられました。なんとみなさんは、それほどの強い思いをもってイエス様からこの食卓に招かれた一人ひとりです。
これからまさにイエス様は十字架に引き渡されていきます。死は恐怖、悲痛なものです。また、イエス様の十字架刑に鞭(むち)打ちや嘲(あざけ)りが伴っていました。イエス様は実際に鞭打たれる度に鞭が肉に喰いこんで剥(は)がされ、そして釘(くぎ)を打たれた、その有様は血みどろのお姿だったはずです。 イエス様が人を憐れまれた、その切なる思いを、聖書の言語は、はらわたがよじれる(断腸(だんちょう)の思い)と表現しますが、気持ちだけではなく、イエス様は肉体そのものがボロボロになられたのです。
しかし、私たちはどれほどにその尊(とうと)さを、自分に向けられた神の愛として、身にしみて感じているでしょう。そもそも日本で暮らす多くの人たちにとって、聖書は外国の昔話・おとぎ話と感じられるかもしれません。では教会に通う私たちは、それとは違うと堂々と確信をもって言い、主の晩餐(ばんさん)に与(あずか)っているでしょうか。世界で初めての主の晩餐には、誰ひとりイエス様をわが主と理解している人はいませんでした。それにもかかわらず弟子たちは使徒として食卓に招かれたのです。その愛情深さを思います。同時にそれは、ただのヒューマニズムや無頓着とは違っています。そうではなく、イエス様はどこに立って生きるのかということを最後まで貫かれたのです。お話しへ続く・・・