11│2023年03月12日

岡山バプテスト教会


週 句 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
聖書   ルカによる福音書 19章28節

説 教 「主がお入り用なのです」 高橋周也牧師
聖書   ルカによる福音書19章28~40節

「石の叫びもきいてみたい」
言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす(ルカによる福音書19章40節)
 今朝のお話ではお取り扱いできませんが、人が黙らされてしまうとき、石が叫んでくれるというきき取り方があってもよいと思います。20代の一時期、キリシタン史跡巡りを趣味にしていたことがありました。全国出張のある仕事をしていましたので、その折ごとに寄り道をしました。山の中に隠れていたり、観光地とはほど遠い場所にあったりするので、おかげでずいぶんとマニアックなローカル線に乗るなど、楽しい経験をたくさんしました。史跡巡りをする度、不思議な経験をしました。思い込みや勘違いだと言われればそれまでなのですが、キリシタンたちがこっそり埋葬された墓石や隠れて住んでいた場所などを訪れる度に、迫害と弾圧にあって死んでいった人々による、彼らから見て遠い未来を生きる私たちへの祈りを強く感じたものでした。その故に、目を閉じて何時間もそこに留まることになったという経験が一度や二度ではありません。 
 東日本大震災で津波の大きな被害を受けた地域の高台には、西暦869年頃の貞観地震の際に造られたある石碑が残されているそうです。そこから下の海岸寄りには家を建ててはならないと言い伝えられていたとのこと。地域によっては忘れられてしまっていたのですが、3.11ではそこから山側にはほとんど津波の被害がありませんでした。そこにはキリスト教信仰ではないとしても、平安時代の人びとの子孫を思う祈りが込められていたと思います。人が声を奪われても、石は人の祈りを叫び続けます。そうであれば十字架はなおのこと、私たちに強く主イエスがキリストであることを証しつづけているのです。