10│2023年03月05日

岡山バプテスト教会


週 句
神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
聖書   ルカによる福音書18章7節

説 教 「正義の味方は誰の味方か」 高橋周也牧師
聖書   ルカによる福音書18章1~18

「気を落とさずに祈るお方」
 皆さんは今日の譬えを読むにあたって、自分をどの立場におくでしょうか。この箇所を読む時に、まるで当然かのように、多くの人は「不正な裁判官」を主なる神様とし、「やもめ」を私たちキリスト者とか人間に当てはめるかもしれません。そして教えられた「絶えず祈らなければならないこと」とは、諦めずに熱心に願い続けることと解釈され、その粘り強さが信仰深さと結びついて高く評価されることに繋がってきたかもしれません。私はそれらのことを間違いとは思いませんし、その読み方も否定はしないのですが、私自身はそこに福音を見出すことが非常に厳しかったということについて、皆さんに正直に分かち合っておかなくてはなりません。私は今の日本社会を生きるやもめの息子ですので、法に依って守られねば生きていけない必死のやもめの声を「うるさくてかなわない」と評する人物を神様とは重ね合わせ難いのです。また、ミャンマーでは“国軍”による不当な裁判によって、平和に生きようとする市民が死刑に処され続けています。そのような現実を知るにつけ、世にある不当な裁判の数々を思う時、やはりそれは“しんどい”ことであります。
 「神を畏れず人を人とも思わない」人びとは今でも大勢います。そのような現実に、気を落とさず私たちを愛して執り成し祈り続けるイエス様の姿を、私はむしろやもめの側にみたいと思うのです。信仰(=ピスティス/真実/信実)は人間の側から神様に向かう矢印のみではありません。むしろ主の人へ向かう言い尽くし得ない圧倒的な信仰によって、人は生きるのです。
生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実(ピスティス)によるものです。【聖書協会共同訳ガラテヤ2章20節】